昭和35年8月4日のこけら落しののち、NHK仙台放送局、東北放送などの数々の祝い公演が開催され、その後本格的なホール運営をスタート。終戦後すでに15年が過ぎ、ようやく国内が落ち着きを取り戻し、日本経済が上昇気流に乗りつつあった当時は、白黒テレビ放送が軌道に乗りはじめ、まだラジオの活躍が大きかった頃でした。催物の種目も回数も、現在とは比較にならないほど少ない時期です。このためホールにとっては公開番組が制作の目玉になり、ホール内にテレビ中継用のケーブル敷設を行ない、地上中継車と7階ホール内のテレビカメラにより公開録音、録画をできる最先端の施設を整えました。
当初は月に一度を目標に自主公演を開催。電力ホール初の自主公演は、当時アメリカ留学より帰国したばかりの江藤俊哉氏の帰朝演奏会と銘打ったバイオリンリサイタルでした。
昭和36年3月には、かねてから発注していたフルコンサートピアノ、ベーゼンドルファーが到着。ベーゼンドルファーはヨーロッパの貴婦人とも称されるウイーン製の名器。その事始としてピアニスト・安川加寿子氏を招き、東北では初めてのベーゼンドルファーによるフルコンサートを開催しました。また電力ホールの優れた音響効果は、東京交響楽団をバックに記録映画が製作されたほどです。